南関町 南関城跡(鷹ノ原城跡)

2017年 2月15日   南関町 南関城跡(鷹ノ原城跡)
 中世宇土城などに比べると、こちらは近世城郭跡ということで、思った以上に石垣跡が見られ、当時の城の規模が重い偲ばれ、こんなに大きく立派な城跡だとは思いもしませんでした。本丸は広い広場のようになっており、二の丸、三の丸の縄張りも畑などになっていますが、だいたい思い描くことができました。残念なことに西日で影ができてしまったりで石垣などの様子がうまく撮れませんでした。
 また、本丸への入り口には、城ノ原官軍墓地があり、西南の役で亡くなられた77名の将兵が葬られているそうです
 南関御茶屋跡でお聞きすると、前から坂道を登れば短時間で行けるとのことでしたので、熊本地震で崩れた場所もある道を注意しながら上りました。
南関城跡 (鷹ノ原城跡)
 南関町役場の北側、標高100mの小高い台地を4本の大きな堀切が分断しています。城ノ原とよばれるこの地に南関城跡があります。南関城は、熊本城の支城の一つでしたが、その縄張りの規模は、近世の宇土城跡や、肥前名護屋城跡に匹敵する大きさを持つ近世城郭でした。宝永3年(1706)に井沢幡龍が著した「南関紀聞」には、 慶長5年(1600)の関ケ原の戦い直後、加藤清正みずから「高原」に登って縄張りをしたという記載があリ、一国一城令によって廃城されたのは、元和元年(1615)と考えられます。平成7年度の調査では、大量の瓦片や鯱瓦片が出土し、間接的に瓦葺きの建築物の存在が証明されました。平成11年には本丸.西側斜面に残存高7m、築石段数21段の石垣が発見されました。また石垣以外に注目されたのが破城の痕跡でした。空堀底部に壊した石垣の石材を敷き詰めるように並べ、その上に土をかぶせて隠していることが判明したのです。その後も本丸隅櫓跡や新たな石垣面なとが検出されています。』
本丸西側には高い石垣跡が見られます。
三の丸側から                              本丸側から三の丸
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石垣の遺構
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本丸南側の遺構                            本丸から石垣を見下ろして
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本丸隅櫓跡 二の丸への枡形?石垣
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本丸東側の遺構   ここにも低い石垣が残されていました。
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城ノ原官軍墓地
熊本県指定史跡 城ノ原官軍墓地   昭和52年10月11日指定
 ここは、明治10年(1877)西南の役で薩摩軍と戦って死亡した政府軍の墓地で、地名をとって城ノ原官軍墓地と呼ばれる。ここには、主として木葉(現玉東町)及び瀬高(現玉名市)方面の戦闘で死亡した政府軍の77名の将兵が葬られている。戦争当時は、野戦病院となっていた関村の西宗寺の境内に仮埋葬されていたが、明治11年、この地に本葬されたものである。このほか、南関町には肥猪(こえい)に「肥猪官軍墓地」(県指定史跡)があり、180名が葬られている。』
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場 所


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