菊池市 菊地氏発祥の地
2020年10月21日 菊池市 菊地氏発祥の地
以前から訪れてみたいと考えていた「菊池氏発祥の地」を訪れてみました。「菊之池跡」、「菊池則隆の墓」、「菊池氏発祥之跡碑」があるだけですが、菊池氏1070年~1532年まで約450年間の礎となった地かと思うと感慨深いものがあります。
『藤原則隆は太宰天満宮領赤星荘園の荘官として延久2年(1070)、この肥沃で水運の便のよい菊池平野の一角、深川に拠って居城を構え、地名をとって菊池を氏とした。深川は穀倉地菊池の中心であり、当時は佐保川から菊池川本流に通じる交通の要衝でもあったので、この地を拠点に勢力を伸ばし、早鷹天神(菊池市赤星)・老松天神(西合志弥生)・山崎天神(熊本市)・田口天神(甲佐町)および玉名市の川崎・高瀬・津留の天神を勧請した。これらは菊池氏が荘園の防備・保全のため勧請した荘園神でもあり、荘園内で押領など不法を働く荘官・住人に対し天神の怨霊の力を示すものでもあった。この地には南北朝のころまで累代居館が続いた。』
菊池氏発祥之跡碑



菊池則隆の墓
『則隆の墓は文化15年(1818)に創建され、明治・大正の工事を経て現在の状態になった。』


菊之池跡
『菊之池跡
菊池初代則隆が菊池に下向したとき、この深川に館を構えた。「菊池餘芳」によれば、・・・・深川村に広大なる池あり、其形花様をなし、池辺一帯菊花乱開して紅白爛漫たり。則隆公即ち名付けて菊の池と称せり、且つ此池池水満々として漲り、旱魃の際河水乾涸するも池水は尚涸るることなく郡中の田を潤せり。是れ当家を起こす吉瑞なりとて則隆公即ち氏を菊池と改め、其城郭を菊の城と称し、郡も菊池と称えたりと云ふ。・・・・とあるが、則隆が菊池に下向してから千年近くを経った。現在は水は涸れ周囲の環境は変わって、昔をしのぶことはできない。ただ、地名だけは「菊之池」として残り、この地区の小学校の名称も「菊之池小学校」と呼ばれ、昔の面影をとどめている。』








場 所
以前から訪れてみたいと考えていた「菊池氏発祥の地」を訪れてみました。「菊之池跡」、「菊池則隆の墓」、「菊池氏発祥之跡碑」があるだけですが、菊池氏1070年~1532年まで約450年間の礎となった地かと思うと感慨深いものがあります。
『藤原則隆は太宰天満宮領赤星荘園の荘官として延久2年(1070)、この肥沃で水運の便のよい菊池平野の一角、深川に拠って居城を構え、地名をとって菊池を氏とした。深川は穀倉地菊池の中心であり、当時は佐保川から菊池川本流に通じる交通の要衝でもあったので、この地を拠点に勢力を伸ばし、早鷹天神(菊池市赤星)・老松天神(西合志弥生)・山崎天神(熊本市)・田口天神(甲佐町)および玉名市の川崎・高瀬・津留の天神を勧請した。これらは菊池氏が荘園の防備・保全のため勧請した荘園神でもあり、荘園内で押領など不法を働く荘官・住人に対し天神の怨霊の力を示すものでもあった。この地には南北朝のころまで累代居館が続いた。』
菊池氏発祥之跡碑
菊池則隆の墓
『則隆の墓は文化15年(1818)に創建され、明治・大正の工事を経て現在の状態になった。』
『菊之池跡
菊池初代則隆が菊池に下向したとき、この深川に館を構えた。「菊池餘芳」によれば、・・・・深川村に広大なる池あり、其形花様をなし、池辺一帯菊花乱開して紅白爛漫たり。則隆公即ち名付けて菊の池と称せり、且つ此池池水満々として漲り、旱魃の際河水乾涸するも池水は尚涸るることなく郡中の田を潤せり。是れ当家を起こす吉瑞なりとて則隆公即ち氏を菊池と改め、其城郭を菊の城と称し、郡も菊池と称えたりと云ふ。・・・・とあるが、則隆が菊池に下向してから千年近くを経った。現在は水は涸れ周囲の環境は変わって、昔をしのぶことはできない。ただ、地名だけは「菊之池」として残り、この地区の小学校の名称も「菊之池小学校」と呼ばれ、昔の面影をとどめている。』
場 所
この記事へのコメント
国史跡に指定される菊池氏遺跡は、菊池川右岸に位置する北宮館跡、菊之池B遺跡、北宮阿蘇神社の3カ所からなる計約2万平方メートルだそうです。以前訪れた場所以外を中心に訪れてみました。